鏡花録


鏡花全集を読みながら書き留めていた、私の惹かれた言葉を紹介します。


先生はよく昔の芸道の達人の話をされ、何某の狂言師が狐の声を発して飛び上ると、あたりに獣の悪臭が漂ったとか、誰某の絵師が墨を以って描いた牡丹は、火焔の色に燃えたったとか、そういう類の芸談に及ばれた。況や文章の道に於ては、芸の極致に達する時、神業か鬼神力か、花を描けば芬々たる香を発し、草を描けば颯々たる風のわたる事も、まのあたりだと説かれた。真実そういう境地に到り得るものだと信じて居られた。
──水上瀧太郎『覚書』(鏡花全集巻2月報)

女、──うつかりそんな呼方をしようものなら、不懌(いや)な顔をされる、勿論「御婦人」でなければいけないのだが、──その一事でもわかるとほり、寧ろ崇めていらしつた、と云つた方がよからう。これは、お作の二つ三つも読めば、誰にもすぐ納得がいく筈、無論女は大お好きだが、世に謂う「女好き」「助平」などとは、似ても似つかない好きさだ。
──里見弴『先生の好悪感』(鏡花全集巻12月報)

花はものいはぬ、と世は信ずる。非ず、言はざるにあらず聞かないのかも知れない。
──泉鏡花『雌蝶』

 偶像は要らないと言ふ人に、そんなら、恋人は唯だ慕ふ、愛する、こがるゝだけで、一緒にならんでも可いのか、姿を見んでも可いのか。姿を見たばかりで、口を利かずとも、口を利いたばかりで、手に縋らずとも、手に縋つただけで、寝ないでも、可いのか、と聞いて御覧なさい。
 せめて夢にでも、其の人に逢ひたいのが実情です。
 そら、幻にでも神仏を見たいでせう。
 釈迦、文殊、普賢、勢至、観音、御像は難有い訳ではありませんか。
──泉鏡花『春昼』

秋の花は春のと違つて、艶を競ひ、美を誇る心が無いから、日向より蔭に、昼より夜、日よりも月に風情があつて、あはれが深く、趣が浅いのである。
──泉鏡花『婦系図』

……手を取合うて睦み合うて、もの言つて、二人居られる身ではない。
 唯形ばかり、何時何処でも、貴方が思ふ時に、其処に居る、念ずる時直ぐに逢へます、お呼び遊ばせば参られます。
──泉鏡花『神鑿』

破壁断軒の下に生を享けてパンを咬み水を飲む身も天ならずや。其天を楽め! 苟(いやしく)も大詩人たるものはその脳金剛石の如く、火に焼けず、水に溺れず刃も入る能はず、槌も撃つべからざるなり、何ぞ況や一飯の飢をや。汝が金剛石の脳未だ光を放つの時至らざるが故に天汝に苦楚の沙と艱難の砥とを與へて汝を磨き汝を琢くこと数年にして光明千萬丈赫赫として不滅を照らさしめむが為也
──尾崎紅葉の鏡花宛書簡10(鏡花全集巻14月報)

惚れたと云ふのが不躾であるなら、可懐いんです、床いんだ、慕しいんです。
──泉鏡花『日本橋』

そりや生命がけでなくつちや、……無事に納つたところは、芸事ぢやない。それは、世間あたり前、唯世帯を持つて活きて居るんでせう。誰でも、芸事は身に備つて、為ようと思へば出来るんだけれども、世間で許さない事が多いから、身体が危なくつて出来ないんです。
──泉鏡花『新通夜物語』

分けても色恋よ。……婦(をんな)が一生懸命に成つた時は、皆立派なお役者だわ。たゞ無事に世帯が持ちたいばつかりに、素人で見物の方へ廻つてるんぢやありませんか、……詰まらないわね。
──泉鏡花『新通夜物語』

芥川の鏡花文学への愛着は余人にかえがたきものがあったようである。昭和二年七月二十四日、田端の自宅で自決の前夜の机上に、鏡花全集配本最終巻が開かれたままであったという。枕許の聖書と共に、今世での読みおさめが鏡花であったのである。
──村松定考(鏡花全集巻17月報)

男に不自由はしませんが、幽霊を可懐しがつて、手を曳かれた其の場から、すぐに冥途へ行かうと言つた、あんな人は他にはない。私は一念発起しました。
──泉鏡花『木曾の紅蝶』

人は恋しさも、可懐しさも、慕しさも、最愛さも、生命(いのち)を掛くるは幸福(さいはひ)である。
──泉鏡花『峰茶屋心中』

女体の神仏の端麗なのに、男の目で見て自分より年下と思ふのは嘗てありません。其のかはり年老いたと云ふのも決してない。
──泉鏡花『卯辰新地』

男も女も、誰でも鏡花の女を好かないものはないであらう。多くの人々を恍惚とさせる鏡花の女は、常に神秘の世界に逍遥してゐる精霊的な女である。同時に惜気もなく精霊の衣を脱ぎすてゝ、俗臭と脂粉の香(にほひ)に充ちた伝法になつてしまふ女である。天堂と穢土とを自在縦横に去来するところに鏡花の女の人気がある。
──水上瀧太郎「幻の絵馬」の作者(鏡花全集巻18月報)

日に照されて消えますのも、悲しく風に散りますのも、口惜しくつて/\人に踏まれて落ちますのも、露の生命(いのち)と断念(あきら)めますけど、道ならぬことをいたしましては、神様、仏様、目に見えません尊い方たちの御罰が可恐(おそろし)うございますもの。生命(いのち)の苦艱は同じでも、未来は助かりたう存じますわ。
──泉鏡花『芍薬の歌』

日本には花の名所がある。日本の文芸には情緒の名所がある。それは鏡花氏の作品である。──要するに、鏡花氏は日本人の感情のうちにある古めかしい美徳の伝統で、人生を飾つてゐると云へる。美しい日本の記念碑と云ふ所以である。
──川端康成(鏡花全集巻19月報)

お前さんの情が足りんのだ、愛が浅いのだ、恋がないのだと思ふから、怨みはしないが、ねだつたんだ、強要したのだ、拗ねて、じぶくつて、あばれて、反つて地蹈鞴(ぢだんだ)を踏んだんだ。
 要するに嬰児(あかんぼ)だつた。
 其と言ふのが、お前さんの他に、世間どころか、前後も左右も、襟元頸窪(えりもとぼんのくぼ)は固(もと)より、自分の睫毛さへ見なかつたからなんです。
──泉鏡花『柳の横町』

此の宇宙の間には、昼と夜との世界の外に、未だ吾々の知らない黄昏の世界がある。時にふとその『黄昏の国』を覗いた者は、仏を見、神を見、妖怪を見る。神も仏も妖怪も、その国には常に姿を現はしてゐる。たゞ吾々の世界にいい気になつてゐる者の目には、うかゞひ知る事が出来ない丈だと云ふのであつた。これは単なるお話では無い。先生は確く信じてゐる、さうして此の信仰が、先生の作品をして荒唐無稽な物語に陥らしめず、吾々の想像が描出し得る神秘境を披瀝するのである。
──水上瀧太郎(鏡花全集巻20月報)

──まりやの面(おもて)を見る時は基督(キリスト)を忘却する──とか、西洋でも言ふさうです。
──泉鏡花『菊あはせ』

卑俗なのがある──同時に崇厳微妙なのが必ずある。絵も、芝居も皆同じだ。
──泉鏡花『山海評判記』

読者は読み進むにつれて人物たちをそれぞれ区別して記憶するが、それはその姿、立居振舞、声、気質などによつてであつて、必ずしも名前によつてではない。その代り鏡花が登場人物に名前を与へる時は、その場面は適切であり、名前そのものも印象的である。
──福永武彦『「山海評判記」再読(中)』(鏡花全集巻25月報)

ともあれ詩は「糸切れて雲より落つる鳳巾(いかのぼり)」の常識的な実にはあらず、さればといつて「糸切れて雲となりけり鳳巾」の虚にもあらず、「糸切れて雲ともならず鳳巾」の虚々実々を正しい境地とし、むしろ時には詩人の誤りとして、感興の余り詩的妄想に陥るとも、決して常識的平俗に堕する事の絶えて無いのは、その誤りを見て君子を知るべきで、鏡花の詩才の縦横を知ると同時に、由来するところあるを見るべきであらう。
──佐藤春夫『「薄紅梅」の作者を言ふ〔承前〕』〔中〕(鏡花全集巻25月報)

虚々実々の鏡花世界を現出するために是非ともなければならないのがあの華やかに優美に、即ち幽玄で、さながら友禅の模様のやうな大まかさと細かさとを兼ね備へた、さびもしをりもある散文詩のやうなあの文体である。これを難解といふのは本来の日本語の美にはまるで盲目で、へたな翻訳小説やそのまがひものなどの三つ子が数をおぼえはじめたのでもあるまいに一から十までを克明に順々に記述することだけをもつて文章の能事と心得て、語にも飛躍もあり含蓄もあること、なければならぬ事を忘れてしまつてゐる輩のたはごとなのである。難解ならば得心の行くまで反復熟読して、文章といふもの、少なくも日本語の本当の文章といふものゝ妙趣が、それも極致を示すものが目の前にあるのを随喜すべきであらう。
──佐藤春夫『「薄紅梅」の作者を言ふ〔承前〕』〔下〕(鏡花全集巻25月報)

恋も風、無常も風、情(なさけ)も露、生命(いのち)も露、別るゝも薄、招くも薄、泣くも虫、歌ふも虫、跡は野原だ、勝手に成れ。
──泉鏡花『紅玉』

盲目(めくら)の愛がなくなりますと、明い世間が暗く成ります。
──泉鏡花『山吹』

人の一生は重荷を負うて遠き道を行く如し、急ぐべからず。不自由を常と思へば、不足なし、心に望おこらば困窮したる時を思出すべし、堪忍は無事長久の基、怒は敵と思へ、勝つ事ばかり知つて負くる事を知らざれば、害其身にいたる、己を責めて人を責むるな、及ばざるは過ぎたるよりはまされり。
──泉鏡花『道中一枚絵 その一』

但愛のためには必ずしも我といふ一種勝手次第なる観念の起るものにあらず、完全なる愛は「無我」のまたの名なり。故に愛のためにせむか、他に與へらるゝものは、難といへども、苦といへども、喜んで、甘じて、これを享く。元来不幸といひ、窮苦といひ、艱難辛苦といふもの、皆我を我としたる我を以て、他に──社会に──対するより起る処の怨言のみ。愛によりて我なかりせば、いづくんぞそれ苦楽あらむや。
──泉鏡花『愛と婚姻』

僕は明かに世に二つの大なる超自然力のあることを信ずる。これを強ひて一纏めに命名すると、一を観音力、他を鬼神力とでも呼ばうか、共に人間はこれに対して到底不可抗力のものである。
──泉鏡花『おばけずきのいはれ少々と処女作』

僕は一方鬼神力に対しては大なる畏れを有つて居る。けれども又一方観音力の絶大なる加護を信ずる。この故に念々頭々彼の観音力を念ずる時んば、例へば如何なる形に於て鬼神力の現前することがあるとも、それに向つて遂に何等の畏れも抱くことがない。されば自分に取つては最も畏るべき鬼神力も、又或る時は最も親しむべき友たることが少なくない。
──泉鏡花『おばけずきのいはれ少々と処女作』

世界の人は、夜と昼、光と暗との外に世界のないやうに思つて居るのは、大きな間違ひだと思ひます。夕暮とか、朝とか云ふ両極に近い感じの外に、たしかに、一種微妙な中間の世界があるとは、私の信仰です。私はこのたそがれ趣味、東雲趣味を、世の中の人に伝へたいものだと思つて居ります。
──泉鏡花『たそがれの味』


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