神についての覚書



人に知覚できないもの=nonsense。神といわれる超越的な存在もnonsense。
わからないものを前にしたとき、人はそこに自分の認識できる定義をあてはめる。神が居るというより、自らが神を見出す、自らの内にある神の観念が投影される。神社の拝殿に鏡が置かれている由縁もおそらくここにある。

鏡(カガミ)のなかには我(ガ)がある。
神(カミ)の観念をいだいた(いだかれた)我(ガ)を鏡(カガミ)はうつす。




神も仏も居ないという人は寂しい。居ないのではなく、見出せていないのだから。
居ないといえば他の所為にしているが、見出すかどうかは自らの責任問題なのだ。

責任を自覚しない人は利己的になる、利己的な人のことは誰も助けたがらない、だから困ったときに神も仏も居ないと思う。そうして無明におちいってしまう。




0コメント

  • 1000 / 1000