泉鏡花『化銀杏』
泉鏡花といえばお化けの出てくる幻想小説を思い浮かべる方も多いかもしれないが、けっしてそうした作品ばかりではなく、むしろ男女間の情念にまつわる人情味に富んだ物語こそ鏡花作品に通底しているといえよう。大まかに幻想小説か人情物かにカテゴライズされることもあるが、それら作風はときに混淆している。『化銀杏』もそのような作品の一つである。
題名の化銀杏からは銀杏の樹が連想されるかもしれないが、これは「銀杏髷」という髪の結い方のことで、若い未婚女性の髪型である。既婚女性は、「丸髷」という結い方をする。(この髪結を叙情的な伏線に据えた作品は他に『黒猫』がある。)
本作の主人公「お貞」は既に結婚しており、本来であれば丸髷に結うのだが、お貞を慕う少年「芳」はお貞に亡き姉の俤を見ており、銀杏髷じゃなければいやだという。芳がかわいいお貞は、従って銀杏髷にしている。芳の姉は、夫からの現代でいうところのDVを苦にして自死してしまったのだが、お貞もまた夫からDVを受けていた。そのお貞の啖呵がふるっており、先見の明というべきか、現代にも通じる結婚にまつわる問題を提起してしている。
唯式三献(おさかずき)をしたばかりで、夫だの、妻だのツて、妙なものが出来上がつてさ。女の身体(からだ)はまるで男のものになつて、何をいはれてもはいはいツて、従はないと、イヤ、不貞腐(ふてくされ)だの、女の道を知らないのと、世間で種々(いろん)なことをいふよ。
(中略)
一遍婚礼をすりや疵者(きずもの)だの、離縁(きられ)るのは女の恥だのツて、人の身体(からだ)を自由にさせないで、死ぬよりつらい思ひをしても、一生嫌(いや)な者の傍についてなくツちやならないといふのは、どういふ理屈だらう、わからないぢやないかね。
お貞の夫はじつは病を患っており、余命がいくらもない。夫はお貞の心を読み、むしろ早く死んでほしいと願っているんだろうとお貞に詰め寄る。夫は最期に、ここで離縁して世間に恥を晒すか、さもなくば吾を殺せと、究極の選択をお貞に突きつける。心理的な窮地に追い込まれたお貞は、夫を殺してしまう。
──このあと終盤では人情話から一転、怪談風な情趣に傾く。
気の狂ったお貞は、自らの恥を世間に知られまいと、暗い一室にこもる。噂を聞きつけて覗き見に来る者がいても、燈火を吹き消し闇に隠れるという。ただお貞を慕う少年の芳だけは、そこに銀杏髷の姉の俤を見ようとする。と、ここまでいくらあらすじを語ったところで、鏡花の迫真の美文には寸毫も敵わない。締めの文から引用して筆を置く。
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