鏡花と仏教
幼いころ、家族でお墓参りするときなど、ほかの家のお墓には花が供えられているのに、なぜうちの家は樒を供えるのだろうかと、不思議に思っていた。美しい色彩に溢れやがて枯れることを想えば頽廃的な気配さえ漂う花とくらべて、樒はあまりに質素ではないかと感じていたのだ。しかし成長し仏教の知識が増したころには、樒への理解も深まっていた。やがて枯れてしまう豪奢な花とはちがい、常緑樹である樒には久遠への祈りが託されている。その質素さにも、華美を好まない精神性があらわれているように思われた。
ここしばらく鏡花全集を耽読しており、泉鏡花の処女作『冠弥左衛門』を読んで、樒を供えてある場面に出逢った。
主役である冠弥左衛門はかつての貴族の末裔であったが仏門に入り、仏像の修復といった仕事をしながら清貧に暮らしていた。しかし領主に虐げられていた人々を救うため、再び浮世に出て活躍をしたのち、その住処をしずかに去る。
床前に机を据ゑて、線香の煙二條、花瓶に樒を挿み、法華八巻の帙を揃へて、宛然人の死したるべき容体、半紙両截にして墨の色潔く、佛師表徳入寂と書きて、傍に辞世を添へたり。
鏡花の作品には、たびたび法華経が出てくる。そのなかで私がとくに印象にのこっている場面がある。
『第二蒟蒻本』の山場。遠い地に離れてしまったはずの情婦が夜に訪ねてきて、思い出話に花を咲かせるが、気がつくと情婦の姿はどこにもない。階下ではなぜか婆さんが仏壇にお経をあげている。虫の知らせか、遠い地にいた情婦は賊に襲われて絶命していたことを後に知る。
「あのう、今しがた私が夢にの、美しい女の人がござっての、回向を頼むと言わしった故にの、……悉しい事は明日話そう。南無妙法蓮華経。……広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心 衆生起信伏 質直意柔軟。……」
ここに引用されている法華経如来寿量品における恋慕とは、入滅した釈迦にたいして衆生がいだく恋慕であり、仏を渇仰する心を生じることが説かれている。しかし『第二蒟蒻本』作中では、情婦との恋に、経文が重ねられている。
また、『春昼』における仏僧の発言。
偶像は要らないと言う人に、そんなら、恋人は唯だ慕う、愛する、こがるるだけで、一緒にならんでも可いのか、姿を見んでもいいのか。姿を見たばかりで、口を利かずとも、口を利いたばかりで、手に縋らずとも、手に縋っただけで、寝ないでも、可いのか、と聞いて御覧なさい。
せめて夢にでも、その人に逢いたいのが実情です。
そら、幻にでも神仏を見たいでしょう。
釈迦、文殊、普賢、勢至、観音、御像(おすがた)はありがたい訳ではありませんか。」
故郷金沢の行善寺に祀られている釈迦の母である摩耶夫人の像に、鏡花は幼いころに亡くした母の俤をみていたという。
母、あるいはそれは永遠の女性像への思慕と、仏教の信仰が、ここに重なる。それは鏡花自身の個人的な喪失体験や思慕を超えて、作品を普遍的たらしめている。
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